第1課 依頼

白川乡

読解

  これは日本の大学に留学した学生から聞いた話である

  私は飲食店でアルバイトをしているんですが、あるお客さんが店長に両替(りょうがえ)を頼んだんです。すると、店長は困った顔で「うちの店では両替はちょっと……。」と言ってその後は何も言いませんでした。それなのに、お客さんは「分かりました。」と言って帰って行ったんです。お客さんはどうして店長の言葉の意味が分かったんでしょうか。

  日本語を(まな)んでいる外国人から「日本人の話し方は、曖昧でよく分からない。」という声をよく聞く。この話に出てくる店長の「うちの店では両替はちょっと……。」という言葉も、両替ができるかどうかはっきりと言っていないので、曖昧で分かりにくい表現だと言える。しかし、そのような表現を使ったにも関わらず、お客さんは店長の言葉を断りだと理解でき、話が成り立った。どうして日本語ではこのように曖昧な話し方をするのだろうか。

  日本語は相手の期待に沿えないとき、はっきりと答えない傾向(けいこう)がある。「両替はできません。」と言うと、相手の感情を(がい)してしまう恐れがあるからだ。曖昧に答えることで、両替できなくて申し訳ないという気持ちを(あらわ)し、相手を嫌な気持ちにさせずにコミュニケーションを取ることができるのだ。

  次のような例はどうだろうか。温泉旅館(おんせんりょかん)に行くと、従業員(じゅうぎょういん)が「お疲れになったでしょう。」と言って出迎え(でむかえ)てくれることがある。それに対して、自分が疲れていない場合でも、「そうですね。でも、それほどでも。」と答える。相手が気遣(きづか)ってくれたことを受け止めて、一旦、「そうですね。」と言って相手の言葉を(みと)めてから、(おだ)やかに自分の意見や感想を言うのだ。(かり)にはっきり「疲れていません。」と言ったとしたら、相手は気遣いの気持ちを否定(ひてい)されたような気になるかもしれない。このように日本語は相手の気持ちを尊重(そんちょう)し、相手の立場(たちば)に立った言語表現を(この)むという特徴がある。

  相手に働きかける表現にもこのような特徴が見られる。何かを依頼する表現は、「新しいお客さんを紹介してください。」のように「〜てください」という言い方がまず(あ)げられるだろう。この「〜てください」の「ください」は、もともと「くださる」という尊敬語(そんけいご)だから丁寧(ていねい)な言い方であるが、「ください」という形は「くださる」の命令形である。したがって、相手は言われた通りに行動するしかない。一方、「この書類に目を(とお)していただけませんか。」や「この書類に目を通していただけないでしょうか。」と言った疑問文(ぎもんぶん)の言い方をすれば、相手は自分の行動(こうどう)を選ぶことができ、断ることもできる。相手が選ぶことができる表現を使うということも相手の立場に立った言い方である。このような相手の立場に立った表現は、目上(めうえ)の相手にも使える丁寧な言い方になる。また、「この書類に目を通していただきたいんですが……。」や「この書類に目を通していただけないかと思いまして……。」というような自分の気持ちを伝える表現は、相手は心理的(しんりてき)な負担(ふたん)をかけないので、よりソフトで丁寧な印象(いんしょう)を(あた)えることができる。

  相手の気持ちを尊重した言語表現を使用するのは、日本語の話し方の特徴である。日本語の話し方には特徴がいくつかあるが、それらを理解していくと、相手の言いたいことが徐々(じょじょ)に分かるようになる。そして、周囲(しゅうい)の人と良い人間関係(にんげんかんけい)を(きず)くスキルが(み)に(つ)くだろう。